まつり


令和五年  灘のけんか祭り

松原八幡神社秋季例大祭の通称

10月14日(土)・15日(日) 年番(神輿袷せ)木場

昨年度の経験をもっともっと生かし施行される予定で準備されています。

宵宮は夕方からの雨で大勢の見物客をガッカリでしたが、頑張り通し

翌日の本宮は晴天お祭りは最高潮のうちに終えました。R5.12.14

 

 

 


令和2年.3年は中止

令和四年  灘のけんか祭りは厳粛かつ盛大に開催されました

開催を待ちに待った、地域の住民関係者の喜びが爆発的でした。

 

令和二年  灘のけんか祭り 10月14日・15日

 新型コロナ感染症拡大防止の為、屋台練・神輿合わせは自粛が氏子総代会で決定する。 



 

令和元年  灘のけんか祭り 10月14日・15日(荒天順延)

 年番(神輿練番)旧東山村

 

 

平成三十年 灘のけんか祭り 10月14日・15日両日共晴天に恵まれ、盛大に挙行され

遠来の外国人観光客など多くの人々の歓声に応えた。

 

宵宮宮入り順を待つ、年番 妻鹿町




平成二十九年 灘のけんか祭り 宵宮・本宮 両日天候に恵まれず、厳しい中強行されました。近づく台風には勝てませんでした。そんな中で、神輿練番の舊松原村氏子は「神事」を全て催行しました。

≪写真は海水で身を清める神事(潮かきの儀)を終え、焚火で暖を取るながらも次のステップにはやる気分を感じる人々。

 

松原八幡神社の美しい破風造り屋根の幣殿、拝殿は平成7年7月に修築されました。

この地に九州大分県の宇佐八幡神宮より分霊を勧請(かんじょう)して創祀(そうし)されたのが、天平宝

字7年(763年)と伝えられています。

宇佐八幡神宮は全国4万余の八幡宮の総本社、国宝の本殿・八幡造りという様式の

代表建築物でその壮麗さが訪れる人々を魅了しています。

<宇佐八幡神宮 小窓が国宝・本殿>

また、京都の石清水八幡宮とも平安時代後期から室町時代時代にかけて深いかかわりがあり

松原荘の荘園領主が石清水八幡宮だったようで、その放生会(ほうじょうえ)が

「松原八幡神社秋季例大祭」、つまり「灘まつり・灘のけんか祭り」の始まりといわれています。

放生会とは、「捕らえた生き物を放してやる儀式」のことで旧暦8月15日が祭礼日だったのを、

旧暦9月15日に変更したと文献に記されています。

養老4年(西暦720年)に九州の宇佐八幡宮で始まり、以後、生類保護・殺生禁断の仏教思想とも結びつい

て全国各地の八幡神社で次々と行われるようになります。

また、放生会は貞観5年(863)以降、京都郊外の石清水八幡宮でも行われるようになります。

この神社は貞観元年(859)宇佐八幡宮が日本の中央進出する形で創建されました。

やがて石清水の放生会は延久2年(1070)になりますと神幸渡御を天皇の行幸に準じた様式で行うことが

認められるほど盛大で格式高いものになり、やがて伊勢神宮に次ぐ多くの荘園を日本各地に所有する大神

社へと発展して行きます。

参考文献  執筆 寺脇 弘光(郷土史家)先生(松原八幡神社秋季例大祭の歴史)

「灘まつり」は、地域の繁栄と共に変遷・改革を重ねた住民の心意気が反映され現在に至っています。



2011年宵宮、舊松原村獅子屋台の宮入りはあいにくの雨天でしたが厳粛・盛大に挙行されました。

写真手前、傘鉾(かさほこ)は本宮御旅山渡御の際は一番最初に登場し行事全体を先導します。



宮前広場

2014年御旅所広畠、旧東山村(右)・旧八家村(左)、白木屋台が延々と練り合わせる様子。

矢倉畑の神輿練り合わせ

神輿合わせ

本宮の日には、激しい神輿合わせ、一の丸(應神天皇)、二の丸(神功皇后)、三の丸(比咩大神ひめおおか

み)を祭神とした神輿。この神事は神功皇后が三韓遠征の帰途、白浜沖で軍船に付いたゴイナ(かき)を互

いに擦り落とした故事に因むと伝えられ、神輿合わせが激しい程、神意に叶うといわれています。

 

白浜海水浴場

汐かきの儀 神輿練番の旧村は本宮早朝(6時頃)、冷たい海水で身を清める儀式をします。

 

 

宮移しの儀 練番の旧村は総代以下、本宮、宮入り後に拝殿と鳥居を三度往復し清めます。

終えると、拝殿へ神輿を出し、一の丸に鳳凰を付け神輿合わせの始まりです。ただし、鳳凰は一度だけで以後は擬宝珠に付け替えられます。

 

 

 

舊松原村獅子屋台

露払いの儀 本宮当日は舊松原村の「日本の百音選」にも選ばれている、テンテンツキ(獅子屋台)が太鼓

を止めることなく打ち鳴らしながら練上げたり、地面に放り投げたりして矢倉畑全域を清めますがその時

の歌は、「若ノ松 セーエ ママ ソラエッサノサカ ヨーオ ヨーオ ワーモショウゲヤ オモシロヤ

ナンジャノー ヒョウタンヤ サアー エットエー」歌い終わるやいなや屋台を天高く差し上げ空中に放

り投げます。こうして練るためか、舊(きゅう)松原村では獅子壇尻を獅子屋台と呼んできました。

2015年 旧宇佐崎村神輿練番 御旅所へ向け楼門を出る、本幟と神輿幟

御旅山の賑わい

御旅所広畠手前から旧中村、妻鹿町、舊松原村屋台の三台練合わせ。

 

5万人又は6万人ともいわれる、矢倉畠(広畠)観覧席の観客にヤンヤの喝采で送られ妻鹿へ帰る毛獅子。


本宮 矢倉畠の松原屋台を木場のお迎え提灯が照らす 友情シーン.

  このフォトは ふるさか こおじ氏から拝借し照明を加工してます

 

松原八幡神社秋季例大祭の歴史

ー旧松原村を中心にした「灘のけんか祭り」のあゆみー

発行日 平成7年11月15日

執 筆 寺 脇 弘 光 先 生(郷 土 史 家)

発 行 灘の松原自治会

会 長 田 中 康 夫(故人)

本文254頁

灘の喧嘩祭りー美しい魂のおののきー

執筆された寺脇弘光(郷土史家)先生はこの本で次のように紹介されています。

豪華な祭り、勇ましい祭り、荒々しい祭りとして知られてきましたが、それらはすべて外観上の見解にもとづくもので、この祭りのもつ本質的な面についてふれた見解は・・(中略)


私は「灘まつり」の核心をとらえたその名文に驚くとともに、「灘まつり」に対する真の理解者が現われたことに心からの喜びを感じました。その小文の執筆者は、映画監督でシナリオ作家の松山善三氏で、直情径行の氏は歯に衣着せぬ調子で次のように述べています。


 美しい魂のおののきー灘の喧嘩祭りー

 戦争に負けた時、ぼくたちは餓鬼道(がきどう)に堕ちていた。どっちを向いて生きていたら良いのか皆目分からず、ただ、その日その日の糧をあさって、焼跡に鍬うつことさえ忘れていた。 祭り囃しなど、思いもよらなかった。

 朝鮮戦争という他国の不幸を足がかりにして、やっと白いおまんにありつけたけれど、敗戦ボケは、ますますひどくなって、「祭り」は、人情と一緒に破り捨てられ、顧みられなくなっていた。

 そして二十数年。「故郷」とか「手作りの味」とかいう言葉と一緒に、やっと、祭りがかえってきた。けれども、今日の祭りは、昔日の祭りではない。

 目に見えぬ神秘や、自然へのおそれ、人間へのやさしい思いやり、そういうものはすべて、祭りの中から消えてしまった。今ある祭りは、ショーでしかない。アルバイトを頼んで神輿をくり出したり、同好の士だけが、神楽を舞ったりしている。祭はかえって来たけれど、祭りの心はかえって来なかった。ぼくはそう思っていた。灘の喧嘩祭りを見るまでは。

 灘の喧嘩祭りをこの眼に見た時、ぼくは、そのあふれる活気、怒声、歓声に驚嘆した。ぶつかり合うのは、肉体ではなく、心と心である。

 ひきまわされる神輿は、ぼくたちの祖先であり、その渦中にある時、ぼくたちは、はっきりと、自分が歴史の中に生きていることを知る。

 祭りは見るものではなく、神を祭り、自らを祭るのでなけれが意味がない。形骸しか残っていない日本の祭りの中で、この喧嘩祭りだけは、そこに生き、そこに帰る「ふるさとの若者たち」のものである。これはショーではない。美しい魂の、おののきである。

   (昭和四十八年刊「詩情の姫路」第七号)


二十年前、このコラムを知り感激で身の毛がよだつとは、このことかと想ったことが昨日のように浮かびます。今みると内容は少し古くて、実情とは違った見方もあるようですが、このように「心あたたまる」評価をして下さっている先生方は他にも大勢いらっしゃいます。こんなに素晴らしい「灘のけんか祭り」を残し、引き継いでこられたご先祖に感謝しつつ次世代に伝えていくのが今を生きる我々の務めだと思っています。 



故郷播磨での喜び

酒 井 美 意 子(旧姫路藩主酒井家の直系・酒井忠元氏夫人)

1992年(平成4年)神戸新聞総合出版センター 発行

『平成の灘まつり』ご紀行文中より引用 -

 

 祭りの熱気や華麗さが好きで、国の内外の祭りをかなり見てきた私も、灘の喧嘩祭りのようにエネルギッシュな躍動を感じさせる祭りを見物したのははじめてである。

神輿が地響きたてて激突するたびに、私も首を縮めながらわけのわからぬ喊声をあげる。そしてこの祭りにひきこまれ、とけこみ、一体化している自分に気がつき、「これぞ祭り!」だと思った。 以上が原文

当時の戸谷市長が御招待し、作家の陳舜臣御夫婦らと共に楼門前広場の前に設えた、桟敷席から、豪華な屋台を華々しく練り競い、三基の神輿を激しくぶつけ合う異色の行事はつとに有名であると述べられ、

色鮮やかなのぼりの間を縫って威勢のよい掛け声が響き渡る。迫力満点である。


年配者の指示に一糸乱れず服従する若い人々。着飾った女性たちは撮影に余念がない。

参加する人も見物する人も、ともにこの日を待ちわび楽しんでいるさまが如実に伝わってくる。秋の陽ざしが熱く眩しい。・・・


「このように灘まつりを表現され、最高の賛辞で記述して頂いたものをこうして改めて読み返してみると実に的を得てて嬉しい限りです」。


☆ 酒井美意子様のプロフィール ☆

大正十五年 加賀前田家十六代当主前田利為侯爵(当時)の長女として生まれる、母は旧姫路藩主酒井家宗家二十代当主酒井忠興公の次女菊子、同家二十二代当主、酒井忠元公とご結婚。マナー評論家・皇室評論家・きもののハクビ総合学院百合姿きもの学院学長を歴任。 平成十一年享年七十三歳でご逝去。

著書は『ある華族の昭和史』など多数
お金持ちって誇らしい事なんでしょうか?。


御紀行文の紹介にもどりまして、

 きらびやかな屋台をよく観察すると、精緻な美術品で随分高価なものらしい。これを手荒に扱って毀したら勿体ない。と同郷ゆえに心配になってくる。

正午前に、御旅山服の麓にある矢倉畑に設えられた桟敷へ移動擂鉢の底で行われる祭りを見物するのだが、私はギリシャの野外劇を思い浮かべた。古代より同じような状況で行われていたが、この瀬戸内海に臨み古くから文化の開けていた当地は人類の文化の故郷ギリシャと共通点があるように思えた。


 カラフルなシデ竹や金色眩しい屋台にみとれながら、神輿がぶつけられあがる喊声やどよめきにひたりながら、そこに私は太古から変わらぬ男性の勇猛さ、こわさ、日本人の凄さを感じていた。

これは観光化されたショーではない。生身の人間同士のぶつかりあい、男性復権の雄たけびである。・・


そして女性たちは男性の奮闘を讃え、腕白坊やに苦笑する母性愛の如きものを漂わせながら楽しげに見守り、拍手を惜しまない・・・。

さらに、見るともなく見えてしまった近くの桟敷の人々広げている弁当の豪華さ、聞くともなく聞こえてしまった人々の話し声でわかる仲のよさーーーここ播磨の国は豊かでゆとりのある土地だと、故郷を同じくする者として何よりも嬉しかった次第である。

ご紀行文の紹介は以上で終わりますが、身分の違いを超えこよなく祭りを愛するお心に敬意を表します。



灘のけんか祭り両日は、参加者や御見物のお客様でごったかえています。充分ご注意下さい。屋台などに近づき過ぎない、特に本宮の御旅所周辺は危険です。以上をご理解の上で上記の交通規制や行事予定表をご参考にしてお楽しみ下さい。

フォト集 

 

まだまだあります、只今準備しています。